六古窯
中世から現在まで続く日本古来の窯で戦後に陶磁器研究家の小山富士夫(1900-1975)が再評価した事から「日本六古窯」という。奈良~平安時代の須恵器は大陸の文化であったが、“六古窯”はそれに対し純粋に日本的な性質の焼物とされる。中世期に焼かれた物はそれぞれ、古瀬戸・古備前・古信楽・古丹波・古越前・古常滑といわれる。美濃焼や伊賀焼は含まれていない。後に渥美古窯趾群が発掘された。
瀬戸焼(せと やき)
愛知県瀬戸市を中心とし製作される焼物。一般の陶磁器を含め日本最大の生産地と知られ、陶磁器一般の総称を「セトモノ」という程である。俗に初代・加藤藤四郎景正(鎌倉時代)が開祖とされる。しかし、猿投山の発掘調査により古墳時代後期~平安時代末にも一度途絶えた窯があったともいわれる。古瀬戸は六古窯で唯一釉薬を施した。開祖から四代まで藤四郎時代といわれ、製作された茶入は唐物、瀬戸、国焼(瀬戸焼以外の物)と区別される程。各時代に名工を数多く、後窯時代には有来新兵衛も輩出した。近代では、加藤唐九郎を筆頭に数多くの人間国宝や重要無形文化財などを出した。
丹波焼(たんば やき)
兵庫県の丹波の国で焼かれた焼物。桃山時代以前の物を古丹波という。小堀遠州の指導で焼かれた物を遠州丹波といい、後に立杭に移窯。現在の丹波焼は立杭焼を指す事が多い。同じ丹波篠山市では王地山焼が有り、そこでは青磁や染付、赤絵といった磁器が焼かれていた。ゆえに丹波青磁なども有名。
信楽焼(しがらき やき)
滋賀県甲賀郡信楽町の焼き物。紫香楽とも書く。古信楽の名品「鬼桶」は農家の婦人が桛を入れる緒桶を武野紹鴎が水指に見立てた。その話より紹鴎は信楽焼を深く愛したといわれる。後に利休そして宗旦、遠州と好んで茶器を作らせた。その魅力は名工の野々村仁清・本阿弥空中・有来新兵衛などが信楽の土を以って、技術を試した程である。また、空中斎光甫の信楽「芋頭水指」は有名である。現在では上田直方が茶陶の製作で優れた名工で知られる。
備前焼(びぜん やき)
岡山県備前市の焼き物。伊部ともいう。釉薬をかけず焼締られ、非常に丈夫である。素朴ながら窯変による景色などが楽しめ、使いこむ程に味わい深くなる。平安時代の須恵器窯の衰退に際し鎌倉時代に発展したものと思われる。慶長(1596-1615)年間以前のものを古備前とされる。江戸時代より衰退したが、昭和に入り金重陶陽により桃山陶への回帰し、人間国宝に選出されている。陶陽と西村春湖・三村陶景は備前焼三名工といわれる。後も人間国宝などの名工を数多く輩出した。胡麻、火襷、桟切、牡丹餅、青備前などの作風がある。
越前焼 (えちぜん やき)
福井県丹生郡越前町で焼かれる焼物。鉄分を多く含む素土は赤みがあり、焼締や灰釉の作風である。起源は常滑と似ており初期の作品の区別は難しく、室町時代頃より特徴が判別できるそうです。現在の茶道では作品が少ないです。
常滑焼 (とこなめ やき)
愛知県常滑市の焼き物。古常滑は自然釉や灰釉が掛けられた壺や甕が多く、貴族や宗教用に焼かれた。青森や広島、四国など各地で出土され、全国に流通していたと見られる。天明年間(1781-1789)頃に常滑元功斎が出て茶陶の世界が開けた。幕末にかけて上村白鷗,赤井陶然,伊奈長三らの名工が輩出され、主流だった真焼から作風は一変して多用化した。1878年には中国の金士恒が寿門堂に来て中国式急須の製法を伝えた。近代では山田常山が人間国宝として有名である。現在は朱泥の急須など煎茶茶器などの生産が多く、茶陶は少なめだが抹茶茶碗などは味わい深い点がある。
渥美窯
渥美半島(現・愛知県)で平安時代末期~鎌倉時代にかけて焼かれた古窯址である。特筆した点として神奈川県川崎市で出土した「秋草文壺」は国宝に指定されており、この作品が渥美古窯で製作された物であると有力視されている。この点から相当に高度な作品を焼いていたとも推測できます。現在にない古来の窯として、国宝「秋草文壺」などは興味深い話が多いので調べてみると面白いです。