本阿弥光悦
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本阿弥光悦(1558-1637)
江戸時代初期の総合芸術家。別号に”自得斎”、”徳友斎”、”大虚庵”がある。刀剣の鑑定と研磨や洗浄を生業とする本阿弥家に婿養子となったが、後に実子が出生まれたため、家業を退いた。書家としては近衛信伊と松花堂昭乗と並び「寛永の三筆」と称された。画家の俵屋宗達との共作も残し、琳派の創始者とされる。1615年には徳川家康から鷹ヶ峯の地を拝領し、多種の職人を集め「光悦村」とし芸術の中心地とした。以後、書の他、茶の湯、陶芸、漆芸、出版なども行い、二十年余り創作に没頭した。人物としては質素であり見識に優れ権威に媚びなかった為、将軍・家光すら”天下の重宝”と言わしめた。茶は古田織部に学び、千宗旦や小堀遠州とも交友し楽道入を親しみ自らも楽焼を焼いた。楽焼茶碗の「雨雲・時雨・雪峰・加賀・乙御前」は重要文化財で、「不二山」は国宝である。尾形光琳・乾山兄弟や楽宗入も遠い血縁関係である。孫の本阿弥空中斎光甫も優れた名工である。
加賀光悦の写
時雨の写
雪峰の写
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光悦の楽焼茶碗
光悦の楽焼茶碗は非常に豪快ながら、洗練された意匠性を有しています。また、造形においても高台が窄んでいたり、口元が極端に薄造りであったり当時としては奇天烈な発想ばかりだったのではないでしょうか。口造りは極めて削ぎ落され極限までに薄造りにした挙句に釉薬も掛けずに素地まで見せる程で焼成時からすでに割れていたのではないかとも云われる程である。光悦の芸術への到達点は計り知れず、奇想天外だが完成品を見た全ての人を魅了し、後世の作陶への影響も大きい。ある本には、楽吉左衛門、大樋長左衛門、小川長楽は楽焼のプロであるが、山田山庵、小森松菴、小西平内らは素人であると書いてあった。本阿弥光悦もその類で素人といえる。尾形乾山も含めその後の北大路魯山人や川喜田半泥子など、いつの時代もプロにはない発想を偉大なる素人が新しく生み出してきた。
雨雲の写
雨雲の高台の窄み
乙御前の写
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国宝「不二山」
銘の由来については”冨士山に雪が掛かった情景と似てる”からとか”不二”には二度と同じに焼けない山という意味があると推測されている。察しの通り当時より光悦は非常に有名人であったので彼の造るお茶碗を欲しがる人は多くいたが、容易には応える事はなかった。大阪の資産家が光悦の娘を貰い受けたいと縁談が決まり、支度の代わりに茶碗を一枚ほしいと懇願されたので、光悦は娘を送り出す気持ちで力を入れて茶碗製作に向き合った。その時に拵えたのがこの「不二山」と云われる。入れ物がなかったので娘の振袖の裂に包んで持って行った事から”振袖茶碗”とも言われた。木箱には不二山大虚庵と自筆し光悦角印が捺されていたそうです。
不二山の写
※ 写真はすべて佐々木昭楽の作品