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釜の歴史
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茶の湯ではお茶会を開くことを釜を掛けるといいます。釜は他の道具と違い、途中から出されたり仕舞われたりせず、席中に鎮座し続ける道具です。釜のお湯が沸く音を松に例え松風、松籟、松声の音といい、清閑とした茶席で音を聴く楽しみとなっております。古くの釜の産地は天命・芦屋・京釜の三箇所でした。それに加え、江戸時代から関東地方でも製作されました。
天明写 尾上釜
天命
下野国佐野庄天明(現在の栃木県佐野市)で製作された釜。天猫とも表記する。釜肌は荒目で車軸釜、責紐釜、筋釜、十王口釜など自由な造形である。風炉や火鉢なども生産されていたそうです。発祥が平安時代と非常に古く、釜のルーツといえる。
芦屋
筑前国芦屋(現在の遠賀郡芦屋町)で製作された釜。製作期間は鎌倉時代~江戸初期まで。その時期の作を古芦屋という。正統派の真形の形が多く、無地から風景や幾何学文、動物などの地紋が施されている物が多くある。肌は滑らかで美しく鯰肌と言われる。和銑を用いて薄造りであるがゆえに製作には相当の技量を要する。
芦屋写 真形 浜松地紋
京釜 万代屋写
京釜
室町時代末より茶人の依頼で好みの釜が製作された。三条・釜座には釜師の組合があり、西村道仁、辻与次郎、名越浄味などの名工が在籍していた。芦屋や天命では遠方すぎて事細かな注文が出来なかったため、京釜ではさまざまな創意工夫が試された。芦屋や天命と異なり”天下一”と号したり作者の名前が明白である。現在では大西清右衛門をはじめ吉羽與兵衛、高木治良兵衛、佐々木彦兵衛、和田美之助などが京釜を製作する。
関東の釜
江戸時代には江戸を中心とし、関東でも盛んに釜が製作されました。江戸大西家、江戸名越家、堀家、山城家などの職家がいました。
その他の生産地
大阪・堺では八世紀頃より鋳物師が栄えた地域でした。近代においても茶の湯の発展と共に茶釜製作が盛んに行われ、江戸時代より続く大國藤兵衛や人間国宝を輩出した角谷家などがある。また、御稽古用の釜を大規模に製作する工房も存在していた。加賀では裏千家・四代仙叟より独自に釜製作を行ってきた宮崎寒雉が有名である。尾張には十二代続いた加藤忠三朗などが最近まで製作していた。富山・高岡には般若勘渓が非常に高い質で製作を行っている。山形では高橋敬典に引き続き菊地政光などが御稽古に最適な釜を製作している。
人間国宝
国指定重要無形文化財保持者「茶の湯釜」保持者は現在三名。1963年に初代・長野垤志(埼玉県)[1900-1975]、1978年に角谷一圭(大阪府)[1904-1999]、1996年に高橋敬典(山形県)[1920-2009]がそれぞれ認定された。垤志と一圭は不可能と思われた芦屋釜の和銑製法を再興したことが評価され人間国宝となった。余談だが、当時の敬典は価格が比較して圧倒的に安かったので、人間国宝に選出された際には全国の取り扱い店に注文が殺到した。以後、人間国宝に選出された和銑を用いた高品質な作品と区別を図るために敬典工房という名で従来の御稽古用の釜を製造した。
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釜の素材について
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洋銑は鉄鉱石を石炭で製錬して造られる材料です。鉄鉱石は外国より輸入されており、多くの釜はこの洋銑で作られております。一方、和銑は砂鉄を木炭で精錬した物で主に出雲のたたら製鉄(日本の名刀の素材でもあり”日刀保たたら”でも知られる)などで作られた素材です。錆びにくく耐久性があり最上の素材といえる。しかし、純度の高い和銑は収縮率が高く大半が割れてしまうため、ほとんど生産できません。なお、薄造りに仕上げるのは至難の技である。下記の写真のように砂鉄は銀色っぽく美しい素地色で洋銑は濃い茶褐色であったりする。
割れた和銑釜の破片
無着色仕上げの砂鉄鉄瓶
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釜の印について
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名品や高価な釜は無印の物も多く作品だけでは誰のお作か判別し難い。作り手にしか分からない暗号のような仕掛けも見受けられる。名門の釜師の家系は全体の造詣に深く釜の鑑定が出来る事も多い。古い名品の釜・古い名跡の作、例えば古浄味であれば大西清右衛門や宮崎寒雉などの極め(証明)がつけられているなどの場合も有り得る。