仁清と乾山
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茶道をしているときに非常にキレイな絵付けを施したお茶碗が度々出されます。「此方は○○の絵の仁清茶碗です。」みたいに出されたとき、「にんせい?」などと思ったりしませんか?仁清や乾山ていうのは江戸期の人物なのです。昨今では仁清は白や卵色っぽい生地に乾山は土っぽい色合いの生地に絵付けを施しているときに仁清茶碗・乾山茶碗といいます。
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野々村仁清(ののむら にんせい)生没年不詳
江戸時代17世紀の陶工。正保四年(1647)頃に京都の洛西・仁和寺前に御室窯を開き御室焼と称された。「仁清」という号は、仁和寺の仁と本名の清右衛門の清を合わせたもので、野々村という地名の出から野々村仁清といわれる。宮廷とのつながりがあった茶人の金森宗和との係わりも深かったため公家好の優美で華やかな作品を多く製作した。また、轆轤の技術と絵付けの技術も非常に高度な為、現在の研究でも焼き方が分からない程である。自身が作った事を示す「仁清」の陶印を捺した事も当時としては珍しい点である。
野々村仁清を模した作品
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尾形乾山(おがた けんざん)1663-1743
京都有数の呉服商・雁金屋の三男として生まれる。兄は尾形光琳である。放蕩三昧の光琳とは対照的に真面目な性格であったようだ。父が他界すると遺産を相続し、元禄二年(1689)、27歳の時に仁和寺近辺へ移り住む。この頃には野々村仁清に陶芸を学んだとされる。元禄十二年(1699)には鳴滝に窯を開き作陶により生計を立てだした。正徳二年(1712)には二条へ移り住み市中の窯を借りて作陶を続けた。鳴滝後期より兄・光琳との合作も製作された。作風は錆絵の渋い物から色絵の絵付けを施したものまで幅広い。さらに造形においても正方形の皿や非対象のもの、くり抜きを施すなど当時の常識を覆す物が多い。芸術的な作風とは裏腹に鉢や向付、蓋物など日常に使いやすい道具を多く作った。初期はいい意味で素人っぽさが自由な発想で乾山の作風を築いたが、後期の借窯では自分で環境を調整できない状況下でも思い通りの作品を作る程に技術が熟練したという。
尾形乾山を模した作品
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仁清と乾山の現代
現在の仁清や乾山というと野々村仁清や尾形乾山の作品を忠実に写した物より、作り手の自由な発想やデザインを取り入れて製作されているものがほとんどです。野々村仁清や尾形乾山が造った作品以外は仁清写や乾山写、模乾山など模や写しが付くのが正しいが省略することも多いです。また、絵付けを施したものを総省して「色絵」ともいう。